ケンカ、全部あやまるね (宮城県・小3女子)
私は東日本大震災がおきる日の朝にお母さんとケンカしました。 そしてあやまりもせず、怒ってあやまりもせず、ランドセルをせおい学校にいきました。 学校もおわりだ。私は、母はもうおこっていないと思った。 それを知りたくて、走って家もどろうと橋の上の真ん中くらいにいたとき、 「ドシン、ドッシーン」 と、大きな音がなりひびき、それと同時に、大きな横ゆれがおきた。 サイレンがなりおおつなみけいほうがでた。 わたしはまっさきに、家に帰ろうとした。 その時、「ダメ」と声がすると、目の前に女の高校生が立っていた。 五分後、大つなみが来て、橋はどこかへ流された。みんな学校へ戻りました。 一日目はほとんどの親が迎えにきてくれませんでした。 二日目は私以外のほとんどの親が迎えにきて、帰っていきました。 三日目に、私のお姉ちゃんが迎えにきてくれて、とっても泣きました。 そのときあることに気がつきました。私はお姉ちゃんに、「ねえお母さんは?」と聞きました。 母は死んでしまった。 いまだにお母さんがおこっているままなのかは、わからない。 わたしは、お母さんのことだから、怒ってはいないと思う。 しかし、おそうしきの時、わたしは大泣きした。 母の顏を見ると、「おこっている顏」をしていた。 わたしは、ゴメンネ・・・・とつぶやいた。すると、母の顏は笑った。うれしかった。 今までのケンカ全部あやまるね。ゴメンネ・・・・・。これからも笑顔で、みまもっていてね。 私はお母さんが見つかってから金曜日の2時46分に、ベルを鳴らしています。 そしてお母さんに「ゴメンネ」を送っています。 ちゃんと聞こえていたらいいです。 遺児とともに考える日々 あしなが育英会 八木俊介 震災遺児たちの精神的なダメージが大きい。夏休み最終日の宮城県石巻市レインボーハウス準備で、「これから頑張ること」を発表した。高校一年生のE.Yさんは、「本当の笑顔になれるように頑張る。」 普段はとても明るく、話し好きな女の子。彼女の姿が、「笑顔の仮面」だったとは、震災以降まわりの大人は誰も気づかなかった。 上記掲載A・Hさん。「津波が起きた金曜日、毎週午後2時46分にベルを鳴らしてお母さんに『ゴメンネ』を送っています。」東京の虹の家で走り回って遊ぶHさんは、最近やっと母親への気持ちを作文に書きとめた。 「自分のせいで親が死んだ」と阪神淡路大震災の遺児も親の死に後悔や自責の念を抱いた。英国では「遺児は大人になっても低い自尊感情と罪責感を持つ」と示唆する研究がある。突然の親との死別体験は10年単位の長い間影響が残る。 両親を亡くした小学6年の阪神淡路大震災の遺児は、高校に入学するまで毎日「死にたい」と口にした。神戸虹の家に通い、仲間と理解者に出会った。進学して保育士になり、今では2児の母に。彼女の18年間の頑張りが、虹の家の希望となった。 学校では話せないこと、素直な自分になれる場所。遺児と一緒に人の命や成長をを考える。悩み試行錯誤しながら虹の家の仕事が続く。マラソン伴走者のように末永く寄り添う決心だ。 (出典:『東日本大震災遺児作文集② 3月10日まではいいいだったね』 あしなが育英会・編 筑波大学名誉教授 岡田義也・監修 発行日 2012年12月20日) あしなが育英会 東日本大地震・津波遺児支援
by mama-osaihoubako
| 2013-11-07 10:16
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